For the RUSH's blog トレイルランナーの記録

ポル・ポトの記憶

★ポルポトによる大量虐殺が行われたトゥール・スレン刑務所の生き残り6人のうちの一人が亡くなったとラジオで聞いた。それだけなら、聞き流したニュースとなったかもしれないが、トゥール・スレンでの拷問の様子を描いた人と聞いて思い出した。トゥール・スレン刑務所内でたくさんの拷問の絵をみたが、その絵は、この人が自身の体験を元にして描いた絵だったのだ。例えばこのページにのっている絵。

 ラジオで聞いたニュースのソースは見つけられなかった。


 収容された2万人の中で生き残りはたったの6名。
 多くは、知識人だった。そういった人々は、「反乱を起こす可能性がある」ことや、ポルポト派のいうprimitive communisum に必要ないとの理由で優先的に殺された。

 下の写真は拷問台。いまも血糊がついている。
 こんなことが自分が子供の頃に行われていたというのが衝撃的である。
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暇な人は見てください。2006に行ったカンボジアの旅 HTML


動画にはキリング・フィールドも出てきます。音に注意。




以下、wikiより。クメール・ルージュについて

「完全な共産主義社会」

クメール・ルージュは、カンボジアの国名を「クメール共和国」から「民主カンボジア」に変更した。こうしたなか、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。こうした事態のなか、クメール・ルージュは食糧増産を図る為、プノンペンなど大都市住民、資本家、技術者、知識人など知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。クメール・ルージュはこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称した。

移住させられた人々は、「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は「反乱を起こす可能性がある」とされ殺害された。親ベトナム派や反乱の可能性を疑われたクメール・ルージュ内の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、殺された。子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。

戦争で国内が疲弊し海外からの食糧援助がすべて打ち切られた状態の中、クメール・ルージュはソ連やベトナムとも断交し、高度な専門知識、工業、貨幣制度をも否定した。そして原始共産制社会を理想とする極端な重農政策を強行したが、非現実・非科学的な政策はカンボジア全土に一層深刻な食糧危機をもたらした。


大量殺戮

この政策は、強制労働および飢饉を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮した。

クメール・ルージュによって殺戮された人々の数が、さまざまな立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死んだと主張した。CIAは5万~10万人がクメール・ルージュによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万人、140万人および170万人と推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団は、ポルポト以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポルポト以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないために、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。

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by y-yamatn | 2011-09-06 23:17 | Days | Comments(0)