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For the RUSH's blog トレイルランナーの記録

三陸海岸大津波

三陸海岸大津波 吉村昭著
 図書館でも本屋でも手に入らなかったのだが、震災後、4月20日に第9刷されたようでbunさんに貸してもらった。

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 「まえがき」が昭和45年に書かれている。私の生まれた年だ。明治29年(1896)の津波の体験者から話を聞いているから、今40-50歳くらいならおじいちゃんから話を聞けたはずだ。
 それなら、津波の恐ろしさは、我々世代に伝承されているべきだが、実際は、、、どうだったろうか。


冒頭の明治29年の津波について 
 津波の高さは平均10メートルとお15メートルとも言われている。が、私が田野畑村羅賀で会った一老人の話は、津波の高さを立証するものとして興味深かった。その老人は、中村丹蔵という明治19年生まれの85歳の人である。

中略

 中村氏は、当時10歳の少年で端午の節句の夜、家で遊んでいた。小雨が降り、家の周囲には濃い霧が立ち込めていた。
 突然、背後の山の中からゴーッという音が起こった。少年は、豪雨が山の頂からやってきたのだな、と思った。
 と、山とは逆の海方向にある入口の戸が鋭い音を立てて押し破られ、海水が激しい勢いで流れ込んできた。
 祖父が、
「ヨダ(津波)だ!」
と、叫んだ。
 中村少年は、家人とともに裏手の窓から飛び出すと、山の傾斜を夢中になって駆け上がった。
 翌日、海も穏やかになったので、おそるおそる家に戻ってみると、家の中にはおびただしい泥水に交じって漂流物があふれていた。
 その話をきいた早野村長は、驚きの声をあげた。田野畑村の津波をふせぐために設けられている防潮堤の高さは8メートルで、専門家もそれで十分だとしているが、
「ここまで津波が来たとすると、あんな防潮堤ではどうにもならない」
と不安そうに顔を曇らせた。
 中村氏の家は、かなり高い丘の中腹に建っている。そのあたりの地形は、当時とほとんど変わりはないし、そこまで波が押し寄せてきたとは想像もできなかった。
 私は、村長と中村氏の家の庭先に立ってみた。海ははるか下方に輝き、岩に白い波涛がくだけている。
「40メートルぐらいはあるでしょうか」
という私の問いに、村長は、
「いや、50メートルは十分あるでしょう」
と、呆れたように答えた。


このような体験談が子や孫へと伝えられていれば、、、と思う。
また、教育の果たす役割は大きいと思う。

教育の素材としては「稲むらの火」がとても有名だ。ヒーローの話。リンク先を見てください!
海外でも有名らしい。日本では、昔は教科書に載っていたようだが、今は知る人は少ないようだ。

 ソフト面の対策は教育やハザードマップの整備などだろうが、ハード面については過去には防潮堤のみだったろうか。明治の体験から、この高さより下には家を建てないようにと石碑がある場所が多いようだが、防潮堤の建設に伴い、人々が低所にもすむようになってしまったと、何かで読んだ。
 稲むらの火も、吉村さんの本も、日本の小中学校の教材とすべき本だと思う。

 しかし、、、津波の研究者って少ないらしいけど、どうにかできなかったんでしょうか。警鐘を鳴らしていたかもしれないけど、伝わっていなかったのか。「伝えていたが伝わってなかった」ってやつか。
 また、明治に起きた津波について、地元の人が正確に知っていれば、、、これ読んでそう思いました。
by y-yamatn | 2011-05-09 22:49 | 震災関連